2009年06月04日

無駄な科研費は削減し有効活用を

「科学研究補助金」、通称「科研費」と呼ばれる制度がある。

審査に合格するとけっこうな額が支給される。これは独立行政法人である学術振興会が支給するが、実質は税金からの出費で、平成20年度の当初予算は1571億円だ。

昨今は、特に外部の研究費の獲得数が大学評価の基準となるため、大学が教員に各種研究費の申請を奨励する傾向がある。

しかし端的に言って、文系の大部分と、理工系の一部の研究はほとんど社会に貢献しておらず、かといって長期的に見て人類の知の進展に寄与しているわけでもなく、明らかに無駄だ。

上述の科研費のホームページには「ピア・レビューによる審査を経て、独創的・先駆的な研究に対する助成を行うものです」との文言が掲載されているが、「ピア・レビュー」とは、つまるところ仲間内で審査し合うということで、分野によっては、どう見ても独創的でも先駆的でもないような「自称研究」にも百万単位の補助金が支給されている。

百歩譲って、どんな研究も無駄ではない、なんらかの価値がある、としても、優先順位が低い研究が多い。

何に比べて優先順位が低いのか。現在の日本の医療、福祉、教育全般のおそるべき貧困の解消こそが、まず優先されるべき。

文系の、ほとんど趣味や道楽のレベルの「研究」には、税金から研究費を支給する必要はない。そういう研究に回す予算は、たとえば保育園の充実、貧困家庭の教育費援助、本来の意味での奨学金(返済不要)など、社会が切実に必要としているところに回すべきだろう。

・科学研究補助金
・日本学術振興会

2009.6.18加筆修正
posted by 城名山粋太 at 21:37| 大学を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

大学基準協会の大学評価

文部科学省は国内の大学に対し、7年に一度、第三者機関による大学評価を義務づけているそうだ。この大学評価を行う機関はいくつかあるが、その中でももっとも厳しいといわれているのが大学基準協会。

2009年3月23日、この大学基準協会が平成20年度の大学評価の結果を公表した。公私立大学44大学が申請し、そのうち5大学は「保留」判定となったという。

保留になった5大学の場合、大幅な定員割れをしている、逆に定員を超過している、資格のない教員に大学院での論文指導をさせている、などの問題点が指摘されている。

下記ページに認証を得た大学と保留になった大学の詳しい評価結果がPDFファイルで公開されているので、大学選びの際にはぜひチェックするべきだろう。

大学基準協会大学評価

抽象的な「建学の精神」とか「教育方針」などは大学側の主張をそのまま掲載しているものの、入学者数や教員数、財務状況など、具体的に数値化できる部分についてはけっこう細かく問題点の指摘がなされている。

全体としては、いくら大学が喧伝する理念や教育内容がご立派でも、学生が集まっていない大学はダメ、財務基盤が脆弱な大学はダメ、という基準で評価しているように読める。

ところで認証を得た大学だからといって安心はできない。評価結果をよく読むと、認証されている大学にも、いろいろ問題があることがわかる。

さらに、このような認定評価では表に出てこない問題もある。

たとえば前述の「無資格教員が論文指導をしていた」という問題だが、ここでいう「無資格」というのが、いわゆる「マル合教員ではない」ということなら、筆者としては「マル合教員ならいいのか?」と問いたい。

私大の大学院では、しばしば国立大を定年になったマル合教授を迎えるケースがある。国立大の定年はおよそ65才前後だが、私大の定年は70才前後のところが多い。つまり国立大定年後、さらに5年ぐらい私大に勤務できるということ。しかし、この年齢になると、中には記憶力、判断力がかなり低下していて、とてもまともな指導ができるとは思えないケースもある。

国立大定年の教官が私大の大学院指導教員になるのは一種の天下りであり、教育的な面で極めて弊害の多い慣習だ。

大学基準協会の評価結果を読むと、しばしば以下のような指摘が見られる。
専任教員の年齢構成に関して、61〜70歳の教員の比率が、○○学部で36.9%、○○学部で47.7%、○○学部で39.3%、○○学部で40.0%と高い。

このような大学は、天下り教員が多い可能性が高いといえる。

このブログの関連記事:マル合?

***


【追記】

大学評価を行っている機関には、他に以下の2団体がある。

(独立行政法人)大学評価・学位授与機構
(財)日本高等教育評価機構

 前者は、もともとは防衛大学など、文科省管轄ではない高等教育機関の卒業生に学士号を与えたり、短大専攻科修了生に学士号を与えたりするための「学位授与機構」として発足したものだが、その後、大学評価も行うようになった。昨今、話題となている独立行政法人だ。上述の大学基準協会を含めて、3つの認定組織がある、というのも、よく考えれば無駄な感じがする。

(2009.5.16加筆修正)

posted by 城名山粋太 at 08:41| 大学選び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月02日

子供あつかいの弊害

先日、日本の大学で英語を教えているカナダ人A氏と話をする機会があった。

A氏がいうには、アメリカでは優秀な人材が教育界に進まずにビジネス金融界に進むようになり、結果的に教育の質が低下したという。

これは日本にもいえることで、昨今は「外資系金融機関」などが若者の就職先として人気があるようだ。

まあ、以前から「一流大学」の出身者は高級官僚を目指すか、大企業を目指し、教育者をめざすことは少ない。ごく一部が母校に残って研究者=大学教官・教員となるが、小中高の教員になるようなことは極めて稀だ。

これはおそらく、戦前の師範学校の系譜が現在も続いているということだろう。つまり、教師は本来的な意味での大学で養成するものではなく、師範学校、現在では各大学の教育学部で養成するものなのだ。そして、問題なのは教育学部や教員養成課程は概してランクが下だということ。優秀な人材が集まる場ではないというところに問題がある。

筆者は、児童生徒の年齢が低いほど教師の質を高めなければならないと考えているが、日本の実態は逆で、大学の教師はそこそこの水準が要求され、社会的評価もまあ高いのに対して、幼稚園教諭や保育士のレベルはお世辞にも高いとはいえないし、小中学校教諭のレベルも昨今は低下しているようだ。

誤解を恐れずに敢えていうなら、東大・京大、慶応・早稲田に進学できるだけの学力を持つ人材が教師を目指して教員養成大学や教育学部に進学するようにならなければ、日本の教育はいつまでたっても二流の教師による二流の教育にとどまるだろう。

すぐれた人材が教師をめざさない。この背景には、昨今の拝金主義もあるが、問題はもっと歴史的に根深い。

もともと日本では子供の能力を過小評価し、子供の人権を顧慮せず、「子供らしさ」を強要し、教育面に関しても「幼児ならこの程度」、「小学校低学年ではこの程度」としてきた。その結果「幼稚園教諭はこの程度」、「小学校教諭はこの程度」が教えられればよい、ということになり、知識も経験も能力も乏しい教師が容認されてきた。

これは江戸時代から急激に明治に移行した際に、富国強兵をめざして、とにかく国家に有為な人材を養成することをめざし、その結果、基礎的な読み書き算盤を身につけ、標準語が理解でき、かつ従順な兵士や労働者を育成することを優先して学校教育を泥縄式に整備したところに遠因があるだろう。逆に見れば、フランス革命以後のフランスのような、自由平等博愛の精神から個人の教育を重視するような発想ではなかった、ということだ。

現在の日本の教育に問題があるとすれば、それは単に授業時間が少ないとか知識偏重の詰め込み教育ということだけではなく、根本的に子供たちの人権を軽んじ、かつ最近の子供たちの身体的心理的発達状況を無視して旧態依然とした「子供らしさ」、「小学生らしさ」、「中学生らしさ」、「高校生らしさ」を子供たちに強要している点が大きいのではないかと思う。

このように子供あつかいされてきた18才が、大学に入って突然「大学は自ら学ぶところです」、「履修科目は自分で選択してください」などといわれても、適切な選択や自発的な勉強ができるわけはないのだ。

ところで「子供あつかい」されているのは18才未満の国民だけではない。日本ではすべての国民が従順で、体制に順応することが美徳とされる。国を導くのは一部のエリート官僚と大企業であり、国民はその指示にしたがっていればよい。こういう体制では、国民は与えられた仕事をこなすだけの知的能力、判断力さえあればよく、国家や体制に疑問を感じたり、政策を批判したり代替案を考えたりする必要はないのだ。「知らしむべからず、依らしむべし」である。

余談だが日本の子供は、諸外国の子供に比べて、概して幼く見える。これは前述のように学校を含めた日本の社会と大人が「子供らしさ」あるいは「幼さ」を要求するからだ。

たとえば同じ小学生でも、アメリカ人やフランス人の子供などはきちんと大人と会話ができる。筆者は最初「なんと生意気な」と感じたが、そもそもこう感じる筆者の感覚が、日本的な「子供は子供らしく、従順で、かわいく」という固定観念に縛られていたからだと反省している。



posted by 城名山粋太 at 10:49| 大学を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月29日

入試の倍率は正確か

一般に入試の「倍率」(競争率)というのは、合格者数に対する受験者数の比率。

もしも入学者数に対する受験者数の比率を倍率として公表したり、受験者数を水増しして倍率を計算して公表している大学があったらどうだろう。

入試の際には以下の数字が出てくる。

(1)志願者数(願書を出した受験生の数)
(2)受験者数(実際に受験した受験生の数)
(3)合格者数(大学が合格とした受験生の数)
(4)入学手続者数(入学手続きをし、納付金を納めた受験生の数)
(5)入学者数(4月にその大学に入学した受験者数)

問題となるのは、ある大学に合格した受験生全員が必ずしもその大学に入学しない、ということ。いわゆるすべり止め受験があるからだ。

単純化して考えてみよう。A大学の受験生が10人だったとする。合格者も10人。ところが、そのうち7名は他大学に入学してしまい、A大学には入学しなかったため、入学者は3名。

ここで合格者数に対する受験者数の倍率は1倍。しかし入学者数に対する受験者数の倍率となると3.3倍となってしまい、一見、狭き門に見えてしまう。

受験者数の水増しも実際にはありそうだ。4月になれば入学者数はわかるから、合格者数、入学者数を少なく改竄して倍率を上げることはできない。しかし受験者数なら水増しできる。10人受験し、10人合格しているところを、20人受験したことにすれば倍率は2倍になる。

受験情報誌や予備校が公表している倍率や受験者数は大学側の発表したデータをそのまま使っているだけだから信頼できない。正確な受験者数を知るためには、願書、受験料の納付記録、試験答案、採点記録を丹念に調べなければならないが、第三者がそこまで公正に調査しているとは思えない。

そもそも受験情報誌や予備校は「未だに大学は狭き門」というイメージを維持しなければ存続できないから、基本的に少しでも多くの大学を「入るのが難しい」としておきたいのだ。

昨今、大学の定員割れが話題になることがあるが、定員割れしている私立大学で倍率が1.1以上あったら疑ってかかるべきだろう。

(2007.8.26)加筆修正
posted by 城名山粋太 at 10:34| 大学選び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月13日

すべての「論文」をネット上で公開する

卒論、修論、博論から研究紀要の論文、学会誌の論文に至るまで、教育研究機関や学会で発表される「学術論文」とみなされるものや「研究報告書」はすべてネット上での公開を義務づけることを提案したい。

これによって多くの知見が広く一般社会に浸透する。そして分野を越えて多くの目にふれることによってさまざまな角度から検証がなされ、研究の多様な発展が期待される。逆に既存の研究の剽窃や捏造はやがて化けの皮がはがれることだろう。

また各種論文が専門家の狭い社会だけではなく、広く一般人の目に触れるようになれば、一般社会の常識で「学術論文」なるものの質がチェックされることになる。文系にせよ、理系にせよ、工学系にせよ、主流を外れたところでは、ほとんど無意味な研究、そもそも研究の名に値しないような内容空疎な文字や数式の羅列が論文として書かれていることがあるからだ。

大部分の大学の研究者=教師達は「先生、生徒のなれのはて」でいつまでたっても卒業できない学生、という側面がある。彼らをまっとうな社会の常識と良識で矯正することも必要だ。

ネット上に情報を公開する。これは極めてドラスティックなことだ。印刷技術の登場に匹敵する知の大変革といってもよい。なぜなら、ほとんど費用をかけずに情報を全世界に公開できるからだ。

これまでごく限定された数の印刷物=学会誌などを媒介として細々と、非効率的な情報共有を行ってきた学問の世界にとって、ネットによる情報や知の共有は本来歓迎すべきことなのだが、どういうわけかわが国では学問を高踏的な一部サークル内に留めておくという旧態依然とした発想が支配的だ。たとえば学会がせっかくウェブページを開設しても「会員限定ページ」などが存在していることがその証左だ。

そこには日本の学会の閉鎖性と「オレたちのやっている高尚な学問は一般大衆には理解できないのだ」という傲りや独善、特権意識がある。また一部には「知らしむべからず、依らしむべし」の権力側、特権階級側に立ってきた御用学者体質も残存している。「一般大衆がなまじこのような知識を得るとかえって混乱を招く」という言い分も出てきそうだ。

しかし、このような発想は知の民主主義に反する発想であり、一般大衆を愚弄するものだ。少なくとも日本の一般大衆は、一部の頑迷な学者や官僚が考えるよりははるかにまっとうな判断ができるだろう。

文部科学省や外郭団体も、どういう大学のどういう研究に補助金や助成金を出しているのか、ネット上で研究テーマとその具体的内容を公開する(させる)べきだ。

いわゆる科研費も、首を傾げたくなるような研究に支給されている例がある。こういう場合、支給されている研究者が当該分野の実力者の系列ではないか、あるいは高級官僚や政治家との癒着があるのではないかと勘ぐりたくなるケースもあり、選考過程に不透明感がつきまとう。

学問の自由はある。研究者は何者にも束縛されない。しかし、だからといって自分勝手なことをやってよい、批判を受け付けない、ということになれば、自由のはき違え。さまざまな見地から研究を検証し、誤りや愚行はそれとして批判し、議論するのもまた「学問の自由」だ。批判、反論、再反論などの議論もすべて公開し、広く社会の判断を仰ぐ。これが21世紀の学問のあるべき姿であり、そのためにネットが活用されるべきだろう。

2008.09.13加筆修正


posted by 城名山粋太 at 21:59| 大学を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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