A氏がいうには、アメリカでは優秀な人材が教育界に進まずにビジネス金融界に進むようになり、結果的に教育の質が低下したという。
これは日本にもいえることで、昨今は「外資系金融機関」などが若者の就職先として人気があるようだ。
まあ、以前から「一流大学」の出身者は高級官僚を目指すか、大企業を目指し、教育者をめざすことは少ない。ごく一部が母校に残って研究者=大学教官・教員となるが、小中高の教員になるようなことは極めて稀だ。
これはおそらく、戦前の師範学校の系譜が現在も続いているということだろう。つまり、教師は本来的な意味での大学で養成するものではなく、師範学校、現在では各大学の教育学部で養成するものなのだ。そして、問題なのは教育学部や教員養成課程は概してランクが下だということ。優秀な人材が集まる場ではないというところに問題がある。
筆者は、児童生徒の年齢が低いほど教師の質を高めなければならないと考えているが、日本の実態は逆で、大学の教師はそこそこの水準が要求され、社会的評価もまあ高いのに対して、幼稚園教諭や保育士のレベルはお世辞にも高いとはいえないし、小中学校教諭のレベルも昨今は低下しているようだ。
誤解を恐れずに敢えていうなら、東大・京大、慶応・早稲田に進学できるだけの学力を持つ人材が教師を目指して教員養成大学や教育学部に進学するようにならなければ、日本の教育はいつまでたっても二流の教師による二流の教育にとどまるだろう。
すぐれた人材が教師をめざさない。この背景には、昨今の拝金主義もあるが、問題はもっと歴史的に根深い。
もともと日本では子供の能力を過小評価し、子供の人権を顧慮せず、「子供らしさ」を強要し、教育面に関しても「幼児ならこの程度」、「小学校低学年ではこの程度」としてきた。その結果「幼稚園教諭はこの程度」、「小学校教諭はこの程度」が教えられればよい、ということになり、知識も経験も能力も乏しい教師が容認されてきた。
これは江戸時代から急激に明治に移行した際に、富国強兵をめざして、とにかく国家に有為な人材を養成することをめざし、その結果、基礎的な読み書き算盤を身につけ、標準語が理解でき、かつ従順な兵士や労働者を育成することを優先して学校教育を泥縄式に整備したところに遠因があるだろう。逆に見れば、フランス革命以後のフランスのような、自由平等博愛の精神から個人の教育を重視するような発想ではなかった、ということだ。
現在の日本の教育に問題があるとすれば、それは単に授業時間が少ないとか知識偏重の詰め込み教育ということだけではなく、根本的に子供たちの人権を軽んじ、かつ最近の子供たちの身体的心理的発達状況を無視して旧態依然とした「子供らしさ」、「小学生らしさ」、「中学生らしさ」、「高校生らしさ」を子供たちに強要している点が大きいのではないかと思う。
このように子供あつかいされてきた18才が、大学に入って突然「大学は自ら学ぶところです」、「履修科目は自分で選択してください」などといわれても、適切な選択や自発的な勉強ができるわけはないのだ。
ところで「子供あつかい」されているのは18才未満の国民だけではない。日本ではすべての国民が従順で、体制に順応することが美徳とされる。国を導くのは一部のエリート官僚と大企業であり、国民はその指示にしたがっていればよい。こういう体制では、国民は与えられた仕事をこなすだけの知的能力、判断力さえあればよく、国家や体制に疑問を感じたり、政策を批判したり代替案を考えたりする必要はないのだ。「知らしむべからず、依らしむべし」である。
余談だが日本の子供は、諸外国の子供に比べて、概して幼く見える。これは前述のように学校を含めた日本の社会と大人が「子供らしさ」あるいは「幼さ」を要求するからだ。
たとえば同じ小学生でも、アメリカ人やフランス人の子供などはきちんと大人と会話ができる。筆者は最初「なんと生意気な」と感じたが、そもそもこう感じる筆者の感覚が、日本的な「子供は子供らしく、従順で、かわいく」という固定観念に縛られていたからだと反省している。
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