従来の修士課程は博士前期課程となり、従来の博士課程は博士後期課程と呼ばれるようになってきている。しかしこれは明らかに学歴インフレを引き起こす。このことは「でもしか大学院」に書いた。
今回は私立大学に新設される大学院の教員の資格審査の話。
大学院の設置は大学設置・学校法人審議会というところで審議される。そのときに教員の資格審査も行われる(文部科学省教員組織審査)。つまり申請された教員が大学院で教える資格があるかどうか審査するのだ。
Dマル合:博士後期課程で学位論文の指導ができる。
D合:博士後期課程で学位論文指導の補助ができる。
D可:博士後期課程で授業を担当することができる。
Mマル合:博士前期課程で学位論文の指導ができる。
M合:博士前期課程で学位論文指導の補助ができる。
M可:博士前期課程で授業を担当することができる。
「D」とは博士Doctorの略、「M」とは修士 Masterの略。「マル合(まるごう)」という呼称は、正式書類では「合」の字を○で囲った文字を使うことに由来するらしい。
では何を基準に審査するかというと、教育研究業績。教育業績とは大学での教員歴がまず問われる。また最近ではどのような科目を担当したか、どういう工夫をしたか、なども問われるらしい。しかし重要なのは研究業績。これは一般に著書や論文の本数となる。少ないとランクが低くなる。
また最近では多数の論文があっても、過去3〜5年間に何も書いていなとクレームが付くともいわれている。これは過去の著書や論文数だけで審査すると、とんでもない高齢の研究者を探してきて申請することがあるかららしい。
しかし抜け道はいろいろある。まず、この審査を受けることを見越して、大学の研究紀要に論文を投稿させる。大学の研究紀要というのは実質的には査読は行われず、出せば掲載されるものなので、論文の質はほとんど問われない。特に文系の場合は従来の説や既存の研究からの引用を適当につぎはぎしても論文になってしまう。そして、その論文に独創性や新規性がなくても、誰も問題にしない。そもそも、これらの論文が読まれること自体がごくごく少ない。
また、Dマル合〜D合の教員は博士号を持つことが原則。まあ常識的に考えて、博士号を持っていない教員が博士課程の院生を指導するというのはおかしい、ということはいえる。
しかし、ここでは奇妙な現象が起きる。博士号を持たないベテランの教員よりも、最近、安直に博士号を取得した若手の教員の方が資格が上、ということが起こってくる。公正に見て、奇妙なねじれ現象と言わざるをえない。
分野によっては10〜20年前は現在よりもはるかに博士課程は少なかったし、大学院自体が狭き門だったから、その時代に大学院で学んだ教員は修士号までしか持っていない。これに対して、昨今では大学院は誰でも入れるし、従来の修士レベルの院生が博士課程まで進み、博士号を取得している。つまり学歴インフレスパイラルとでもいうべき現象が起こっているのだ。
修士や博士がほんとうにそれに値する実力を持っているのか、医学や生化学、電子工学など、競争の激しい先端分野では諸外国との比較で一定の水準が維持されているだろうが、理系、工学系でも主流から外れた分野や、ほとんど世の中の役に立たない(したがって、社会的に関心を持たれない)文系の諸分野では研究の質が問われることもなく、名前だけの博士が作り出される。特に学部4年、修士課程2年、博士課程3年でストレートに博士号を得たような人材が、どれほどの力量を持っているか、きちんと検証してほしいところだ。
設置審議会の審査も形式的なものらしい。かつて、ある設置審の委員から聞いた話だが「委員はそれぞれの論文の題目とページ数、そして200〜300字程度の概要しか見ない」という。つまり論文をすべて読んだりはしないし、掲載誌本体を確認することすらしない、ということ。だから論文に適当なタイトルを付け、そこそこのページ数の文章を書き(文字を羅列し)、もっともらしい概要(要旨)が書いてあればよい、というのだ。
それでもすべての教員が審査に通るわけではない。申請する大学側が自信を持ってマル合として申請した教員が認められないこともある。設置審委員が気に入らなければ通らないこともあるといわれる。
そういう場合はどうするか。別の人物を立てることになる。マル合となると、これまで国立大学で実績がある大物教授や、若手なら博士号を持ち、論文数の多い人物を捜してこなければならない。若手の場合、運良く見つかったと思ったら、設置審委員の弟子だったりする。このあたりは、どういうカラクリかよくわからない。
いずれにせよ、筆者が知る限り、資格審査といっても書類上の審査だけ、しかもその書類が形式的に整っていることがチェックされるだけで、実際に裏を取るような調査が行われることはほとんどないらしい。ただ先日、ある大学院の教員の資格審査の際に「発表予定」として申請書に記載された論文が、その後、実際には発表されなかったために認可が取り消された、という新聞記事を見た。まあこれは一罰百戒的な意味あいのものだろう。
耐震強度偽装事件とどこか似た構図だ。
それでも生き残りをかけて大学院を作ろうとする新興私大はなんとしても審査に通るためにかなり無理をする。実質的には文部科学省が許認可権を握っているわけだから、私大としては首根っこを押さえられて、いうなりになるしかない。
ところで国立大学や国立の各種研究機関のリストラが進むと、リストラされた教官や研究者、事務官の受け皿として新興私大の新設学部や大学院が機能することになる。というよりも、ひょっとするとそのために文部科学省は私大に大学院開設を奨励しているのかもしれない。
事実、少子化で18才人口が減少し、大学が過剰になるといわれているにもかかわらず、毎年、大学、学部、大学院が新設されているが、これは社会の需要に応えるためというよりは、国公立大学の教官や事務官のいわば天下り先として機能しているといえる(国公立大学の独立行政法人化によって、大学によっては人件費が削減されている)。
つまりこれは中央官庁が高級官僚の天下りのための特殊法人を作るのと同じだ。
さて、設置申請時にはかなり厳しい審査があるが、完成年度(修士課程は2年後、博士課程は3年後)以降は人事は各大学に任され、文部科学省には報告するだけでよくなるらしい。このためにどういうことが起こるか。ご想像にお任せするが、形式主義的な官僚と、体裁をつくろうことだけを考える大学経営者の手にかかると、実質は極めて貧弱な、形ばかりの大学院が乱立することになり、その帰結としてアメリカ並みの質の低い修士や博士が続出することになるだろう。
【追記】
2007年8月末、以下のページを見つけた。
学歴汚染(ディプロマミル・ディグリーミル=米国型学位商法による被害、弊害)
日本の大学の世界のように、内容や実力よりも見せかけと形式を重んじるような社会では「博士号を持たないが有能な研究者」よりも「インチキ博士号を持つ不誠実な研究者」が有利となるのだろう。
アメリカは自由の国だから、「博士号」を幾ばくかの代価で販売するビジネスは昔からある。ただ、これまではわざわざそれを購入する需要が日本ではほとんどなかった。
しかし昨今、マル合には博士号が必須となってきたため、慌てた中堅の研究者が箔付けのためにこうした「インチキ博士号」を購入し、学歴として文科省に申請するようになったと考えられる。
本来、博士号はすぐれた研究に対して与えられるもの。いかにすぐれた研究をなしたかが問われるべきだ。これはオリンピックのメダルと同じ。仮に金持ちがメダルを持つ選手からカネでメダルを買い取ったとしても、その選手の達成した業績まで譲渡されるわけではない。メダルも博士号も、いわば結果として与えられるものだが、博士号の場合は本末転倒して目的化してしまうところに問題があるといえるだろう。
だから今後、アメリカのインチキ博士号は論外としても、国内の大学で安易に博士号を濫発するところが出てきそうだ。需要があればビジネスは成り立つ。
以下のページに描かれているフィンランドの学位審査こそが、本来の学位審査であり、ここまで徹底できない学位審査は、その名に値しない茶番劇というべきだ。とはいえ、仮に日本でこの方式を採用したとしても、審査する側にモラルと良心がなければ、結局は形骸化してしまうだろう。
・フィンランドにおけるPh.D. Defence
(2009.3.28修正)